薬にまつわるエトセトラ 公開日:2017.05.11更新日:2023.03.03 薬にまつわるエトセトラ

学べば学ぶほど、奥が深い薬の世界。もと製薬企業研究員のサイエンスライター・佐藤健太郎氏が、そんな「薬」についてのあらゆる雑学を綴るコラムです。薬のトリビアなどを伝えられると、患者さんとの距離も近くなるかもしれませんね。

第31回「世界が最も求める薬・アルツハイマー症治療薬の現状」

医薬品メーカーではよく「アンメット・メディカル・ニーズ」という言い方がよくなされます。いまだ満たされていない医療上のニーズを意味する言葉で、これを充足する医薬品こそが、新薬メーカーの最も目指すべきところということになります。

このアンメット・メディカル・ニーズの最たるものが、認知症治療薬の開発であることはいうまでもありません。2012年の日本国内の認知症患者数は約462万人でしたが、この数字は2025年には700万人を突破すると見られています。10年少々で、患者数は1.5倍にも膨れ上がる見通しですから、事態は非常に深刻です。

認知症患者増加は先進国共通の悩みであり、アメリカなどは国家として巨額の投資を行っていますが、画期的な治療薬の開発は実現していません。現状では、日本では4種類の治療薬が認可されています。最も有名なのは、最初に登場したアリセプトでしょう。これは、記憶に関わる脳内物質であるアセチルコリンの分解酵素を阻害することにより、記憶力を賦活するアプローチの薬です。要するに、脳の細胞が死んでいくのを防いだり復活させたりという薬ではなく、生き残っている細胞に何とか働いてもらおうという薬です。

その性質上、認知症の根本治療を行うことはできず、多少進行の速度を遅くするのが、アリセプトの限界です。その他の医薬も、いずれも記憶の改善を目指したものであり、根本治療が望めるものではありません。

根本治療を目指す医薬も数多く臨床試験が進められており、その多くはアミロイドβ仮説に基づくものです。アルツハイマー型認知症患者の脳には、アミロイドβと呼ばれる短いタンパク質が凝集・蓄積しており、これが神経細胞を破壊しているという考えです。「仮説」とついていることでもわかる通り、状況証拠は揃っているものの、現在のところ確実に立証された話ではありません。

この仮説に基づき、多くの医薬候補化合物が創り出され、試されてきました。たとえば、アミロイドβを作り出す働きがある、β-およびγ-セクレターゼという酵素を阻害する化合物は数多く開発されましたが、はかばかしい結果は得られていません。最近では、メルク社のベルベセスタットという化合物が、軽・中度の患者を対象とした初期の臨床試験で好結果が出ているとして注目されましたが、大規模な臨床試験では効果が見られず、この2月に試験打ち切りとなりました。

そこで、アミロイドβを作らせないようにするのではなく、できてしまったものを取り除くアプローチが考えられました。具体的には、アミロイドβに結合する抗体を作って投与する手法です。ただしこれもアミロイドβを減らすことはわかったものの、認知機能の改善にはなかなか結びつかず、連戦連敗が続いてきました。

こうしたことから、アミロイドβ仮説自体を疑う声も上がるようになりました。アミロイドβが蓄積するのは病気の原因ではなく結果なのではないか、ただの症状のひとつに過ぎないのではないかという見方です。

しかし昨年、米バイオジェン社は「アデュカヌマブ」という抗体の投与により、認知機能の改善が認められたと「Nature」誌に発表しました。この分野では長らく前向きな結果が出ていなかったため、この結果は久々の光明として大きく報じられました。しかも認知症の根治という夢に近づく結果ですから、期待が膨らむのも無理からぬところでしょう。

とはいえ、ベルベセスタットのように少人数の時はよくとも、大規模臨床試験では結果が出なかったものはたくさんあります。また頭痛などの副作用もあるため、まだまだ予断は許さない状況に変わりはありません。もし好結果が出て、医薬として承認を受けたとしても、アデュカヌマブは抗体医薬であるため薬価がかなり高くなることが予想されます。患者数や投与期間など考えると、医療費の負担が莫大なものになりはしないかといった懸念も出てきます。 

その一方で、ワクチン療法の研究も進められています。こちらも多くのアプローチが行なわれていますが、治療だけでなく発症前の予防が期待できそうな成果もあり、臨床試験の結果に期待が寄せられています。

これまで数々の失敗例が積み重なってきた認知症治療に、ようやく光が見えてきつつあります。成功までには、まだ一筋縄では行かないとは思われますが、今後の進展に期待したいところです。

佐藤 健太郎(さとう けんたろう)

1970年生まれ。1995年に東京工業大学大学院(修士)を卒業後、国内製薬企業にて創薬研究に従事。2008年よりサイエンスライターに転身。2009年より12年まで、東京大学理学系研究科化学専攻にて、広報担当特任助教を務める。著書に「医薬品クライシス」「創薬科学入門」など。2010年科学ジャーナリスト賞、2011年化学コミュニケーション賞(個人)。

『世界史を変えた薬』(講談社現代新書)が発売中。

ブログ:有機化学美術館・分館

佐藤 健太郎(さとう けんたろう)

1970年生まれ。1995年に東京工業大学大学院(修士)を卒業後、国内製薬企業にて創薬研究に従事。2008年よりサイエンスライターに転身。2009年より12年まで、東京大学理学系研究科化学専攻にて、広報担当特任助教を務める。著書に「医薬品クライシス」「創薬科学入門」など。2010年科学ジャーナリスト賞、2011年化学コミュニケーション賞(個人)。

『世界史を変えた薬』(講談社現代新書)が発売中。

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