薬にまつわるエトセトラ 薬にまつわるエトセトラ

学べば学ぶほど、奥が深い薬の世界。もと製薬企業研究員のサイエンスライター・佐藤健太郎氏が、そんな「薬」についてのあらゆる雑学を綴るコラムです。薬のトリビアなどを伝えられると、患者さんとの距離も近くなるかもしれませんね。

第35回 重水素化医薬品の衝撃

この4月に、米国食品医薬局(FDA)は、テバ社が開発したデューテトラベナジン(商標名Austedo)を、新薬として認可すると発表しました。ハンチントン病の舞踏運動症状を改善する目的の医薬です。

この薬が注目を集めたのは、史上初めて構造式に重水素を含んだ医薬であったからです。実のところこのデューテトラベナジンは、すでに知られていた医薬テトラベナジンに含まれる水素原子のうち6つを、重水素に置き換えただけのものです。そしてこの薬が認可されたことは、今後の医薬品産業にかなりの影響を及ぼす可能性があるのです。

詳しい話に入る前に、そもそも重水素とは何かというところからおさらいをしておきましょう。重水素は水素の同位体のひとつで、通常の水素(1H、軽水素)に比べてほぼ2倍の質量を持っています。軽水素の原子核は陽子ひとつだけであるのに対し、重水素の原子核は陽子と中性子一つずつであるため、このような差が生じます。水素の元素記号はHですが、区別のために重水素をDという記号で表すこともあります。

天然にある水素はほとんどが軽水素であり、重水素の存在比はわずか0.015%に過ぎません。このため重水素化合物はかなり高価で、ある試薬メーカーのカタログでは、重水(D2O)は100mlあたり17,400円で販売されています。

かくも高コストの重水素を、なぜわざわざ医薬分子に組み込んだのでしょうか? 実は、体内での代謝分解を防ぐ工夫なのです。

医薬分子は、体内に入ると肝臓に送られ、CYPなどの酵素で代謝を受けます。代謝にもいくつかのパターンがありますが、C-H結合が酸化切断され、C-O結合に変化するケースが多く見られます。

創薬研究者はこれを避けるため、代謝を受ける部位の水素をフッ素や塩素、メチル基などに変える手法をよく使います。ただしこれらは、水素原子とはサイズも性質も異なるため、分子全体の性質をも変えてしまいます。代謝を防いだはいいが、標的タンパク質への結合力や、水溶性・吸収性などが低下してしまい、元も子もなくなるようなケースも少なくありません。

そこで医薬分子に、代謝部位の軽水素の代わりに重水素を組み込む方法が行われるようになりました。C-D結合は、C-H結合に比べて数倍から10倍程度反応速度が低いことが知られています(重水素効果)。このため、適切な部位に重水素を組み込むことで、代謝酵素による分解を抑制することができるという理屈です。

代謝を抑えられるということは、単に体内での持続時間が長くなるだけではありません。たとえば代謝物に毒性がある場合には、重水素の導入によって有毒化合物の生成を防ぎ、副作用の軽減が期待できます。また、薬物相互作用の抑制が可能なケースも報告されています。

しかも重水素は、フッ素や塩素などに置き換えた場合と違って、分子全体の性質にはほとんど影響を与えません。このため、元の医薬より生理活性や水溶性などが落ちるといったこともありません。問題があるとすれば製造コストが高くなることでしょうが、医薬として十分にメリットがあるなら、吸収が可能な範囲です。

デューテトラベナジンの場合でいえば、テトラベナジンの持つ2つのメトキシ基に結合した水素原子を、6つとも全て重水素に置き換えた構造です。これによってメトキシ基部分の代謝を防ぐという狙いです。臨床試験の結果、デューテトラベナジンは元のテトラベナジンに比べ、各種精神症状の副作用発現率が低く、より安全性の高い医薬であることが示されています。

テトラベナジン(左)とデューテトラベナジン(右)

しかし、これが新薬として認められるということは、他にも既存の薬を重水素化した「新薬」が認可される可能性があるということになります。長年かけてようやく承認にこぎつけた薬が、重水素を入れただけの「新薬」に市場を全てさらわれるとなれば、先発メーカーとしてはたまったものではありません。

すでに米国では、こうした重水素化医薬を専門としたベンチャーであるコンサート・ファーマ社が、グラクソ・スミスクライン社と10億ドル以上の契約を結ぶ一幕もありました。今回のデューテトラベナジンも、もともとオースペックス社が開発したものを、テバ社が会社ごと約35億ドルで買収したものです。各社とも最近では、特許申請の際に重水素化に対する対策を打ってきているようです。

もっとも、既存の薬に重水素を組み込んだだけの「新薬」に、全て特許が成立するかどうかもわかりません。重水素化によって性質が改善することがわかった以上、同じ手法を他の医薬に拡大しても「新規性がない」と見なされ、特許の要件を満たさない可能性があるからです。その他にも、重水素化医薬は特許の面でいろいろな問題が予想されます。

ともあれ、実際に重水素化医薬が認可されたことは、大きな一歩であったに違いありません。今後の展開に、注目する必要がありそうです。

佐藤 健太郎(さとう けんたろう)

1970年生まれ。1995年に東京工業大学大学院(修士)を卒業後、国内製薬企業にて創薬研究に従事。2008年よりサイエンスライターに転身。2009年より12年まで、東京大学理学系研究科化学専攻にて、広報担当特任助教を務める。著書に「医薬品クライシス」「創薬科学入門」など。2010年科学ジャーナリスト賞、2011年化学コミュニケーション賞(個人)。

『世界史を変えた薬』(講談社現代新書)が発売中。

ブログ:有機化学美術館・分館

佐藤 健太郎(さとう けんたろう)

1970年生まれ。1995年に東京工業大学大学院(修士)を卒業後、国内製薬企業にて創薬研究に従事。2008年よりサイエンスライターに転身。2009年より12年まで、東京大学理学系研究科化学専攻にて、広報担当特任助教を務める。著書に「医薬品クライシス」「創薬科学入門」など。2010年科学ジャーナリスト賞、2011年化学コミュニケーション賞(個人)。

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